Profile

H・A・R・U・N・A
Haruna OKUYAMA 奥山華名

和歌山県新宮市出身(坂本篤子)。
2005年よりパソコンを使用し、デジタルによる彩色を始める。当初は二科展デザイン部、千葉デザイン展等に出品。
2010年からフランスのサロン・ドートンヌに応募するようになる。2014年3月サロン・ドートンヌ会員推挙。2015年のデジタルアート部門新設に大きく貢献し、部門創設メンバーとしてデジタルアート部門初の会員。

Dehors,dans la nature,je sens le naturel et le surnaturel… Ma démarche est de découvrir l’essence des choses dans l’apparence pour en tirer un motif qui sera exprimé sur le plan artistique.

自然の中で、自然と超自然を感じ、そして自然物…とりわけ私にとって親密な植物や昆虫そして鳥や動物…の表象から、その真髄(エッセンス)を抽出します。いわゆる捨象です。こうしてオリジナル文様が生まれ、さらにこの文様をアートに昇華させます。
心を研ぎ澄まし、心を開放し、超自然の光の中で、私は光の粒子に包まれる。時間と空間からの解放。唯一の私の居場所、私の実存。

サロン・ドートンヌとは

フランス最高峰の画壇の一つと言われるサロン・ドートンヌ(Salon d’Automne)は、1903年、マティス、ルオー他の参加によって誕生しました。
近年は、パリのコンコルド広場から凱旋門へのちょうど中間辺りでしょうか…、地下鉄の駅で言うとシャンゼリゼクレモンソー駅を出たところのシャンゼリゼ大通りの歩道上に設置された白くて長い、トンネル状の特設会場で展覧会が開催されています。automneは秋という意味で、名前の通り、展覧会は秋に開催され、期間中は会場内でコンサートなども行われ、大勢の、芸術を楽しむ人々で大賑わいです。フランスでは、アートはとても身近なもので日常生活に密着しているのです。
この展覧会を登竜門に、またこの画壇での活躍をベースに、素晴らしいアートを作るアーチスト達が生まれてきました。モディリアニ、セザンヌ、ルノワール、ピカソ、ミロ、ロダン、ユトリロ他。日本人では、藤田嗣治、佐伯祐三、岡本太郎、織田広喜、ヒロ・ヤマガタ他。 サロン・ドートンヌについての詳しいこと、客観的説明は、Wikipédia他をご覧ください。(2019.2)

HARUNAのつぶやき

奥山華名 Haruna Okuyama は、デジタルアート作品を2010年からサロン・ドートンヌに応募してきました。オリジナルの文様をアートに昇華させた作品です。この【文様のデジタルアート】は、サロン・ドートンヌに驚きと喜びをもって受け入れられ、急速に評価を高めていきました。イラスト史に無いオリジナルの文様、文様のアートという新しいジャンル、デジタル表現の美しさ、(デジタル技法でありながら)デザインの領域に留まらないアート性の高さ…。
私がパソコンを使って作品を作り始めたのは2005年です。その時から14年、今ではIT技術の高度化により、パソコンの性能(処理速度そして扱えるデータ量)は当時と比べものにならないものです。当時のパソコンは、処理速度がとても遅く、入出力もUSB1で低速。さらにメモリが少なくてしょっちゅうシステムダウン。メモリもハードディスクも、ギガ(G)が単位ではなくメガ(M)の時代です。思い通りに作品を作ろうとしても、ソフトウェアがフリーズ、システムがダウン。作品を深く作り込むことができません。こんなパソコンで何が作れるか…【表現技法】を研究しました。また、せっかく作った作品も、一般的なプリンタでは色が再現できず、また光に当たると色が褪せてしまうなど、販売する上で大きな問題がありました。また当時は、パソコンで作った作品は、アートとして扱ってもらえず、デザインかフォトに近い扱いを受けました。
デジタル技術の目覚ましい進歩は、遅かれ早かれ、アートの領域にも新しい風を吹き込み、時代は、デジタルの華が大きく開花するのを待っていたと言えると思います。そんな時代性と共に、私のデジタルアートが、【サロン・ドートンヌにデジタルアート部門を誕生させる】 その一つの起爆剤になることができたのは、また<アートは手描き>という旧来の常識を破って、【デジタルアートが、新しいジャンルとして芸術分野の中に存在場所を得る】ことに少なからず貢献できたのは、このような過渡期に、私の心がデジタルアートに向き、そして様々な困難の中でもただひたすら作品を作り続けてきたからだと思います。このことに気づいたとき、私が人生の中で長年抱えてきた【自分の居場所がこの世には無い】という思いは、【実は気がつかないだけで、誰にでもこの世に居場所が与えられているのかもしれない】【私にも居場所があるのかもしれない】という思いに変わりつつあります。ただしそれは、実際の活動の場という意味ではなく、あくまでも心の問題としての…。(2019.2)